Mag-log in東棟の階段から響いた重い音は、十三度目で止まった。
どん、と最後の一音が校舎の底へ沈み、そのあとには非常ベルだけが残った。
赤い警告灯が明滅するたび、割れた鏡の破片が床の上で光る。つい先ほどまで、その一枚には透の姿が映っていた。
階段へ行くな。
死んだ透の唇は、確かにそう動いていた。
「行かない」
澪が言った。
自分でも驚くほど強い声だった。
悠斗が東棟へ続く扉を見た。
「でも、今の音を確認しないと――」
「透が行くなって言った」
「鏡に映ったものを信用するのか?」
「今は、何も確認できてないまま近づく方が危ない」
美月も澪の隣へ立った。
「賛成。さっきのは人が階段から落ちた音にも聞こえた。でも、本当に人なら声くらい出てもおかしくない。先にここで分かることを調べる」
奈々香は返事もしなかった。左耳に当てたガーゼを押さえ、割れた鏡を見ないよう俯いている。
朔だけは非常ベルの周期を数えていた。
やがて胸元へ固定した小型カメラを外す。
「舞踊室の映像を見る」
悠斗が苛立ったように振り返った。
「今?」
「今だからだ。俺たちが見たものと、記録されたものが一致してるか確認する」
その言葉に、澪の胸元で手帳が重くなった。
中には、澄花の字で書かれた楽譜が挟まれている。
朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。
その一文を、澪はまだ誰にも見せていない。
朔は床へ膝をつき、カメラの液晶を開いた。
五人が横一列に並ぶところから映像を戻す。
一往復目。
五人。
二往復目。
五人。
澪たちの記憶では、鏡の中の悠斗だけが半歩遅れた。
だが保存映像では、悠斗もほかの四人と同じ速さで動いている。
「違う」
澪が画面へ顔を近づけた。
「ここ。悠斗が遅れたはず」
「遅れてないな」
美月も確認する。
三往復目。
現実では、鏡の中の奈々香が一人だけ立ち止まった。
映像の中では、五人全員が同じ歩調で端まで進んでいる。
「私、止まってたよね」
奈々香が掠れた声を出した。
「鏡の中の私だけ。みんな見たよね」
「見た」
澪が答える。
美月も頷いた。
四往復目。
澪の呼吸が浅くなる。
このとき、鏡の中には六人いた。
五人の後ろを、制服姿の少女が歩いていた。
右手首には赤い組紐。
けれど、小型カメラの映像には五人しかいない。
鏡にも、五人しか映っていなかった。
少女の姿どころか、影もない。
朔は再生を止めた。
「カメラには入ってない」
「またそれ?」
奈々香の声が尖った。
「教室でもそうだった。肉眼で見えたのに映らなかったり、映像にだけいたり。何が本当なの」
誰も答えられない。
澪は自分の胸元へ手を当てた。
楽譜の紙が、服越しに硬く触れる。
朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。
澄花は八年前から知っていたのだろうか。
カメラが真実を残さないことを。
それとも、朔のカメラだけが何かを隠していたのか。
「待って」
奈々香が急にスマートフォンを見た。
「何かある」
割れた画面を指で操作する。
「私、配信切ったよね」
「音楽室へ入る前には切れてた」
美月が答える。
「通信自体もほとんど死んでる」
「なのに動画が一個増えてる」
奈々香の顔から血の気が引いた。
「撮った覚えない」
朔が立ち上がる。
「見せろ」
奈々香は一瞬ためらい、端末を渡した。
保存された動画は一本。
作成時刻は数分前。
撮影者情報には奈々香の端末名が残っている。
映像は、舞踊室の入口から始まった。
カメラの高さは奈々香がスマートフォンを胸元で構えたときとほぼ同じだった。
五人が室内へ入っていく。
先頭に朔。
澪。
美月。
悠斗。
最後に奈々香。
「おかしい」
奈々香が画面を指した。
「私も映ってる」
撮影している端末は奈々香のもの。
なのに映像には、奈々香自身が五人目として歩いている。
誰がそのスマートフォンを持って撮影していたのか。
朔は黙ったまま再生を続ける。
五人の後ろに、少女がいた。
澪の喉が詰まる。
今度は、顔が見えた。
八年前のままの椎名澄花だった。
濡れた髪を肩へ貼りつけ、制服姿で歩いている。
右手首には赤い組紐。
顔色は白い。
けれど、目も鼻も口もある。
澪が知っている澄花の顔だった。
六人は鏡の前へ横一列に並ぶ。
現実には五人だったはずの列に、映像の中では澄花が加わっている。
彼女は澪のすぐ後ろ。
肩一つ分だけ距離を空けて立っていた。
澪は無意識に自分の背後を見た。
当然、誰もいない。
「止めないで」
美月が言った。
画面の中で、六人が歩き始める。
朔が先頭。
全員が鏡の右端へ目を向ける瞬間が来る。
現実では、朔が何かに気づき、五人がほぼ同時に右を見た。
映像でも同じ動きが起こる。
ただ一人を除いて。
澄花だけが、一秒早く右を向いた。
五人がまだ正面を向いているあいだに、彼女は先に顔を動かしていた。
何かが起こる位置を、あらかじめ知っていたように。
そのあとで五人が右を向く。
澄花はもう、こちらを見ていた。
撮影しているはずのスマートフォンを。
「こっち見てる」
奈々香が両腕を抱いた。
画面の澄花は、まっすぐレンズを見つめる。
唇が動いた。
音声はない。
何度再生しても、動画には足音と衣擦れしか入っていない。澄花の口だけが、短い一語を作る。
「何て言ってるの」
奈々香が呟く。
「透なら分かったかもしれない」
その名を口にした瞬間、五人の間へ重い沈黙が落ちた。
透は音だけでなく、人の口元の動きから言葉を拾うこともあった。撮影中、遠くの会話が録れていないとき、映像を止めては何を言っているか推測していた。
もう、その声を訊くことはできない。
美月が端末を受け取った。
「もう一回」
映像を拡大する。
澄花の口元だけを見る。
一度。
二度。
三度。
美月の眉が寄った。
「『下』じゃない?」
「下?」
「口の開き方。短い一音なら、そう見える」
朔が映像を一コマずつ進めた。
澄花は確かに、唇を一度閉じ、そのあと舌を下げるように口を開いている。
した。
そう言っているように見えた。
澪は床へ目を落とした。
鏡の破片。
椅子の脚。
朽ちた木板。
「下を探せってこと?」
「それが俺たちへの言葉ならな」
悠斗は壁際の鏡を見た。
「また従うのか」
「階段へ行くよりはいい」
美月が返す。
五人は裏部屋へ戻った。
割れた鏡の向こうにある細長い空間。
プロジェクターやカメラが並び、最近飲まれたペットボトルと電池が残されている。
朔は床へ懐中電灯を当てながら進む。
新しい男物の足跡。
悠斗の靴底によく似た跡。
それらは奥の壁際で途切れていた。
澪は割れた鏡の下へしゃがんだ。
破片を直接触らないよう、手袋をつける。
光を動かすと、床板の一部だけ反射が違った。
「ここ」
朔が隣へ膝をつく。
埃を払うと、木目の間に細い四角形の境目が現れた。
金属板だった。
縦二十センチ、横三十センチほど。
床と同じ色へ塗られ、上から埃を被せられている。
角には、最近工具を差し込んだような傷があった。
悠斗がドライバーを出す。
「開けるぞ」
美月が奈々香を後ろへ下げる。
四隅の螺子を外す。
悠斗と朔が板を持ち上げた。
下に暗い穴はなかった。
薄い空間に、丸めた紙が一本収められている。
朔が手袋越しに取り出し、ゆっくり広げた。
古い図面だった。
紙は茶色く変色し、端の一部が水を吸って崩れている。
上部に、七刻女学校設備管理通路図と印刷されていた。
「こんなの……」
悠斗の声が止まる。
通常の校内図とは違う。
教室や廊下の輪郭の内側に、細い二重線が何本も走っている。
壁の中。
天井裏。
床下。
建物の設備を点検するために設けられた細い通路だった。
音楽室。
舞踊室。
放送室。
理科準備室。
四つの場所が、一本の経路でつながっている。
澪は指を震わせながら線を追った。
「放送室にも行ける」
美月が言った。
「壁の穴」
全員が彼女を見る。
「透を殺した装置の透明な糸。壁の小さな穴から配線用の空洞へ続いてた。これがその先なら……」
「犯人は放送室に入る必要がなかった」
朔が続ける。
「透が内側から鍵を掛けたあとでも、壁内から糸を操作できる。モーターを遠隔で動かして、テープを引くこともできる」
奈々香が口元を押さえた。
「じゃあ、本当に誰かが殺したんだ」
「可能性は高くなった」
朔は図面を見つめる。
「少なくとも密室は崩れる」
「でも入口は?」
澪が訊く。
図面には細い通路がある。
ところが、どこから入るのかを示す扉や点検口の記号がない。
四つの部屋へ枝分かれする線だけがあり、始点も終点も途中で切れている。
「これだけじゃ入れない」
美月が言う。
「どこかに入口があるはず」
「管理会社の図面には載ってなかった」
悠斗が呟いた。
空気が止まった。
澪が顔を上げる。
「管理会社?」
悠斗の顎が強張る。
奈々香が一歩退いた。
「知ってたの?」
「違う。通路そのものがある可能性は知ってた」
「さっき初めて見たみたいな顔してたじゃん」
「正式な図面には『設備空間あり』としか書いてなかったんだ」
悠斗は苛立ったように髪を掻いた。
「この学校の管理をうちが引き継いだとき、古い資料を見た。壁の厚さが不自然な場所があるから、設備用の空洞だろうとは思ってた。でも、人が通れる通路だなんて記録はなかった」
「どうして黙ってたの」
美月の声が冷える。
「関係ないと思ったからだ」
「透が密室で死んだあとも?」
悠斗は答えに詰まった。
「放送室の壁に空洞があるって分かった時点で言えたでしょう」
「人が入れるとは思ってなかった!」
声が裏部屋へ響いた。
「古い建物なら配管スペースくらいある。全部いちいち話してたら切りがない」
澪は図面を見ながら尋ねた。
「八年前は?」
悠斗がこちらを見る。
「何が」
「この通路のこと、知ってた?」
非常ベルの赤い光が、割れた鏡越しに悠斗の顔へ差す。
「知らなかった」
短い返事。
迷いはなかった。
だからこそ、澪には本当かどうか分からなかった。
八年前の鏡の噂について、悠斗は「澄花がふざけて隠れた」と言った。
澪にはそんな記憶がない。
もし澄花が本当に一時姿を消したのなら、壁内通路へ入った可能性もある。
あるいは。
誰かが、そう見せた。
澪は胸元の手帳へ触れた。
澄花の一文は、まだ隠したまま。
朔は図面をカメラで撮影し、一度だけ澪へ視線を向けた。
目が合う。
「どうした」
「何でもない」
今度も嘘をついた。
罪悪感より先に、胸の奥で小さな警戒が動いた。
朔が撮っているもの。
自分たちが見ているもの。
そして今、奈々香の端末にだけ残された、朔の映像には存在しない澄花。
何が同じで、何が違うのか。
それを確かめるまでは、楽譜を見せてはいけない。
澪はそう思った。
図面を畳み、五人は舞踊室を出た。
東棟の階段には近づかない。
朔が先頭で西棟の廊下を選ぶ。
非常ベルはいつの間にか止まっていた。
静かになった校舎では、雨水が軒から落ちる音まで聞こえる。
階段の踊り場が見える少し手前で、朔が足を止めた。
「聞こえる」
澪も耳を澄ませる。
少女の声だった。
遠くない。
階段の踊り場。
「一、二、三、四……」
幼い声が、一段ずつ数えている。
五人は動かなかった。
「五、六、七……」
奈々香が美月の袖を掴む。
「八、九、十……」
悠斗が懐中電灯を階段へ向けた。
白い光の中には誰もいない。
七刻女学校の東階段。
澪は八年前にも何度も上り下りした。
一階と二階の間は十二段。
それは覚えている。
「十一」
少女の声が一段上がる。
「十二」
そこで終わるはずだった。
静寂が一拍置かれる。
誰も息をしない。
暗い踊り場の上から、濡れた上履きが床を踏む音がした。
ぺたり。
少女が、嬉しそうに最後の数を口にした。
「十三」
午前二時五十分。 美月が自分へ告げられた死亡予定時刻を生きて越えてから二十分余り、六人は旧道脇の開けた場所で次の動きを決めかねていた。 奈々香の午前三時十三分まではまだ時間があるが、園村香苗を模した人形、偽造された薬剤、切断寸前のブレーキ配管と、罠は一つずつ見つけても終わる気配がない。 さらに美月へかかってきた声は、高校時代の澄花しか使わなかった言葉まで知っていた。 犯人が現在の行動だけではなく、八年前の七人の私的な記憶にまで入り込んでいるという感覚が、眠気より重く全員の身体へまとわりついていた。 悠斗は橋の欄干近くで煙草へ火をつけ、苛立ったように一度深く吸い込んだ。 警察への連絡は妨害されたままで、車を動かすことにも警戒しなければならず、何かを触れば罠かもしれない一方で、何もしなければ別の仕掛けを見落とす。 その窮屈さに耐えかねたように煙を吐いた瞬間、彼のスマートフォンが上着のポケットで鳴った。 画面へ表示された名前を確認した悠斗は、露骨に顔をしかめた。「今度は俺かよ」 発信者は〈黒瀬悠斗〉。 自分自身からの着信だった。 誰も応答しないうちに端末は勝手にスピーカーへ切り替わり、悠斗本人の声で〈黒瀬悠斗。死亡予定時刻、午前三時〇二分〉と読み上げた。 悠斗の表情は一瞬だけ固まったものの、奈々香のように怯える代わりに、すぐ怒りが恐怖を押し潰したように腕へ力を込めた。「ふざけんな」 時刻は午前二時五十分を少し過ぎたところで、残り十二分しかない。 悠斗はスマートフォンの電源を切ろうとしたが、朔が記録を残すため止めると、端末を握ったまま橋の中央まで歩いていった。 そこで胡坐をかくように路面へ座り、両手を膝の上へ置く。 顔には、犯人の思いどおりには一歩も動かないという意地が浮かんでいた。「だったら俺は何もしない! 車にも乗らない。倉庫にも入らない。電話も取らない。何も食わないし飲まない。ここから一歩も動かなきゃ、罠に誘導しようがないだろ」 理屈だけなら間違っていなかった。 奈々香は恐怖から車で逃げようとし、美月は仲間を助けるため医療バッグを開くことを読まれていた。 本人が自然に取る行動の先へ殺害手段を置くのなら、その行動自体を止めればいい。 澪も一瞬は悠斗の考えがもっとも安全に思えたが、朔だけは時計から目を離さなかった。「座っ
午前一時五十二分。 蓮司の車内で奈々香の手のひらに残った赤い文字を撮影していたとき、美月のスマートフォンが短く震えた。 通信妨害が続く山中では、通常の回線を通した着信など成立しないはずだった。 それでも画面は着信表示へ切り替わり、発信者欄へ〈早乙女美月〉という名前が浮かんだ。 美月は端末を持ち上げたまま、すぐには応答しなかった。 奈々香のときと同じなら、触れなくても勝手に通話状態へ切り替わる。 朔がカメラを向け、蓮司が時刻を記録し、澪は眠気の消えた奈々香の肩へ手を添えた。 三度目の振動が終わったところで、予想どおり画面が自動的に切り替わった。『早乙女美月』 スピーカーから流れたのは、美月自身の声だった。 救急現場で必要事項を確認するときの、無駄な抑揚を削った落ち着いた声。 それが本人の名を読み上げ、数秒の間を置いて続ける。『死亡予定時刻、午前二時二十七分』 車内の時計は一時五十二分を示していた。 残り三十五分。 奈々香が息を呑み、美月の横顔を見た。 美月はすぐ端末を伏せたが、声も呼吸もほとんど乱れていなかった。「美月……」「大丈夫」 奈々香の死亡予告を二度経験したあとだから、仕組みそのものに慣れたわけではない。 それでも自分へ向けられた数字を聞いた瞬間、美月が恐怖より先に何を狙われているのか考え始めたことが、澪には表情から分かった。 奈々香が「怖くないの?」と訊くと、美月は一度だけ視線を時計へ戻し、自分の脈を確かめるように手首へ指を当てた。「怖いよ。でも、怖がったときにどう動くかまで読まれてるなら、取り乱した方が相手の予定どおりになる」 奈々香は何も言えず、自分の掌へ残った赤い文字を見た。 美月は一度深く息を吐き、車外へ出る前に自分の持ち物から確認すると言った。 犯人は奈々香の車とバッグへ罠を仕込み、本人が自然に選ぶ逃げ道を殺害手段へ変えていた。 ならば救急救命の知識を持つ美月に対しても、彼女が危機へ直面したとき最初に手を伸ばすものが狙われている可能性が高い。 美月が最初に床へ置いたのは医療バッグだった。 七刻女学校へ入る前から持ち歩き、透の死亡確認にも使ったものだ。 止血用品、包帯、消毒薬、体温計、簡易の検査器具、常備薬が細かく仕切られた内部へ収まっている。 美月自身が補充しているため、本来なら一本増
午前三時十三分まで、二時間を切っていた。 園村香苗を模したシリコン人形が置かれた軽自動車を警察へ引き渡すための連絡は、依然として電波妨害に阻まれている。 山道を徒歩で抜ければ通信圏まで戻れる可能性はあったが、奈々香の死亡予定時刻を告げた者が、その行動まで見越して罠を置いていない保証はない。 蓮司は車と倉庫で見つかった仕掛けを見回したあと、逃げるのではなく、相手が午前三時十三分に何を起こすつもりなのか先に探すと決めた。「予言じゃないなら、予定表だ」 悠斗が低く言った。 奈々香を一時十三分に殺すため、犯人はブレーキ配管を切り、倉庫へ落下装置を用意していた。 二つとも見破られたあと、予定時刻だけが三時十三分へ変更されたなら、新しい罠をすでに準備しているか、離れた場所から起動できる仕掛けへ切り替えた可能性が高い。 死亡予告を恐れるだけでは、犯人が用意した選択肢の中を動かされ続けることになる。 奈々香は蓮司の車の後部座席へ移された。 二台とも遠隔遮断器を外したため電源は復旧していたが、ブレーキへ細工された奈々香の車は動かせない。 蓮司の車も走らせず、橋と電話ボックス、山林のいずれからも距離を取り、周囲を四方向から確認できる路肩へ停めた。 美月が奈々香の隣に残り、窓とドアを内側から施錠し、何があっても一人で外へ出ないよう約束させた。「眠ったら駄目?」 奈々香は疲れ切った顔で訊いた。 二度も死亡時刻を告げられ、髪を根元から引き抜かれたうえ、橋の上で長時間緊張を続けている。 美月は無理に起き続ければ判断力が落ちるため、短時間眠ること自体は問題ないと答えた。 ただし自分が必ずそばにいて、呼吸と意識状態を確認し続けると伝える。 澪、朔、悠斗、蓮司の四人は、電話ボックス脇から山林へ伸びるケーブルを再び辿った。 小型無線中継器は倒木の裏へ防水ケースごと固定され、遠隔信号で公衆電話のベルや音声再生装置を動かせるようになっている。 先ほどは構造を確認するだけに留めていたが、今度は朔が書き込み防止用の機器を介し、ノートパソコンから保存領域の複製を始めた。 犯人へ接続を悟らせないため、通信機能そのものは切らず、記録だけを読み取る。「ログが残ってる」 朔の指が止まった。 端末には日時と送信先を示す記録が並び、今夜の着信だけでなく、数日前から試験信号
午前一時十四分へ変わる直前、欄干の外側から伸びた白い指が奈々香の髪へ触れた。 最初は濡れた枝が風に煽られたのだと、澪の目は理解を拒んだ。 だが指は五本あり、その先には掌があり、細い手首が暗い谷側へ続いていた。 橋の外には人間が立てる足場などない。 それでも女の手は奈々香の後頭部へ回り込み、長い髪を根元からまとめて掴んだ。「奈々香!」 澪は反射的に彼女の左腕を引いた。 ほとんど同時に奈々香の身体が欄干側へ強く引かれ、首が不自然に後ろへ反る。 奈々香は悲鳴を上げ、両手で自分の髪を押さえたが、見えない何かに身体ごと持っていかれるように靴底が路面を滑った。 朔が右腕を掴み、美月は奈々香の腰へ腕を回した。 悠斗と蓮司もすぐ駆け寄り、欄干から距離を取らせるよう全員で橋の中央へ引く。 澪の掌へ奈々香の爪が食い込み、朔の靴が濡れた路面で一度滑った。 髪を引く力は一瞬だけさらに強くなり、ぶちぶち、と嫌な音が奈々香の後頭部から聞こえた。 次の瞬間、力が消えた。 奈々香の身体は勢い余って橋の中央へ倒れ、澪も膝を路面へついた。 朔は奈々香を支えるより先に欄干へライトを向け、美月は倒れた彼女の頭を両腕で守る。 白い手はもうどこにもなかった。「動かないで。頭打った?」「髪……髪が……」 奈々香は泣きながら後頭部を押さえた。 美月はすぐ手袋をつけ、頭皮を照らして傷を確認する。 頭蓋部に打撲らしい腫れはないが、右後頭部だけ髪が不自然に薄くなり、赤くなった頭皮へ小さな出血点が幾つも並んでいた。 路面には髪が落ちていた。 十本や二十本ではない。 長い毛髪が数十本、束になって欄干近くへ散らばり、その多くに毛根がついている。 何かへ絡まった髪が自然に抜けたのではなく、強い力で根元から引き抜かれた痕跡だった。「誰かいた?」 悠斗が欄干から下を照らす。「いない」 蓮司も別角度から橋の側面を確認した。 コンクリート欄干の外側はほぼ垂直に落ち、下には十数メートル先の河原がある。 橋脚へ点検用の細い突起はあるものの、人間が片手でぶら下がりながら奈々香の髪を掴める位置ではない。 ロープを使えば可能性は残るが、欄干にも橋面にも固定具や擦れ跡は見当たらなかった。 朔はすぐに橋下へ続く斜面へライトを向けた。 先ほど透らしき人物が現れた河原にも人影はなく
〈死亡予定時刻、午前一時十三分〉という自分自身の声を聞いてから、奈々香はまともに呼吸ができなくなっていた。 美月が肩へ手を置いてゆっくり息を吐くよう促しても、彼女の視線はスマートフォンの時計へ吸いついたまま離れない。 午前零時三十二分。 残り四十一分という数字が一つ減っただけで、奈々香は喉を押さえ、橋を出ると言って車へ向かって歩き出した。「ここにいたら死ぬ。私、帰る」 悠斗が追いかけ、蓮司も橋を離れるなら六人一緒だと制した。 誰も奈々香を一人にするつもりはなく、死亡予告が犯人の誘導である可能性を考えれば、指定場所から逃げることさえ罠になり得る。 それでも奈々香は首を振り、今いる場所こそ殺されるために選ばれた場所だと言いながら、震える手で車のドアを開けた。 運転席へ座った奈々香がスタートボタンを押すと、セルモーターすら回らなかった。 警告灯だけが一度点き、すぐにメーター全体が暗くなる。 奈々香は「なんで」と呟きながら何度も始動を試したが、結果は同じだった。 朔がすぐに運転席から降ろし、車体へ触れる前に周囲を撮影する。 蓮司が自分の車でも始動を試したが、そちらも反応せず、二台ともほぼ同時に電気系統を失っていた。 悠斗がスマートフォンを取り出して警察へ連絡しようとすると、アンテナ表示は消え、圏外になっている。 美月、蓮司、澪の端末も同じで、数分前まで使えていた位置情報共有も切れていた。 山間部とはいえ、橋へ到着した時点では弱いながら通信できていたため、自然な電波状況の変化だけでは説明しにくかった。「妨害されてる」 朔は山林側へ隠されていた無線中継器とは別に、広い帯域へ雑音を流す小型の妨害装置がある可能性を指摘した。 車の始動不能まで同じ設備で起こせるとは限らないが、少なくとも外部との連絡を切り、六人を橋周辺へ留める意図は明確だった。 彼は自分の端末を操作しながら、通信が完全に失われた時刻と奈々香への死亡予告が流れた時刻を並べ、偶然にしては近すぎると呟いた。「じゃあ、さっきの電話は?」 奈々香が自分の端末を差し出した。「圏外になる前にかかってきたんでしょ。誰から?」 朔は着信履歴を開き、しばらく画面を見たあと眉を寄せた。 そこには白石奈々香からの着信が存在しなかった。 通話記録にも、不在着信にも、午前零時三十一分の発信は
午前零時十三分を過ぎても、河原に相馬透の姿が戻ることはなかった。 濡れた石の上には、彼が使っていた黒いヘッドフォンと、細長く伸びた磁気テープだけが残されている。 美月は手袋を二重にしてからヘッドフォンを拾い、朔が横で位置と状態を撮影した。 磁気テープには直接触れず、蓮司が長いピンセットで別の証拠袋へ収める。「これ、透のです」 美月はヘッドフォンの内側を懐中電灯で照らした。 左側のヘッドバンド裏に、浅い三本の傷が並んでいる。 高校時代、透が音響機材を机から落としたときについたもので、本人が気にせず使い続けていたため、美月も澪も何度か見たことがあった。 イヤーパッドの裂け目を白いテープで補修した跡まで一致しており、似た機種を用意しただけとは考えにくい。 澪は河原の暗がりを見た。 七刻女学校の放送室で透が倒れたあと、このヘッドフォンは彼の荷物と一緒にあったはずだった。 その遺体が消えた際に所持品まで持ち出されたのか、誰かが警察の封鎖前後に回収したのか、それともさらに別の経路で戻り橋へ運ばれたのか、判断できる材料はない。 確かなのは、死んだと確認した友人の私物が、今夜ここへ置かれていたことだけだった。「触った人間の痕跡が残ってるかもしれない。現場では最低限にする」 蓮司の言葉に、美月は頷いた。 だが朔はヘッドフォンを袋越しに見るうち、右側のハウジングだけわずかに厚みが違うことへ気づいた。 通常なら左右対称に近いはずの外装が、片側だけ一ミリほど浮いている。 落下で歪んだ可能性もあるが、螺子頭には一度開けたような細い傷があった。「中に何か入ってる」 悠斗が顔を寄せる。「ここで開けるのか?」「全部は開けない。外から確認できる範囲だけ」 朔は蓮司と警察へ連絡を入れ、現地保存を優先しながらも、現在進行中の危険につながる情報が隠されている可能性を説明した。 許可を得たうえで、車から精密工具を持ってきて右側の外装を慎重に外す。 内部の配線には大きな改造はなかったが、吸音材の裏へ、薄い黒色のメモリーカードがテープで固定されていた。「また記録媒体」 奈々香の声が小さくなる。 返し雛の内部から出てきた特殊規格のカードを思い出したのだろう。 朔は今回のものは一般的な小型規格で、八年前にも市販されていた形式だと説明した。 透は音響機器の