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第20話 先に振り返った澄花

Author: なつめ
last update Petsa ng paglalathala: 2026-08-15 18:35:17

 東棟の階段から響いた重い音は、十三度目で止まった。

 どん、と最後の一音が校舎の底へ沈み、そのあとには非常ベルだけが残った。

 赤い警告灯が明滅するたび、割れた鏡の破片が床の上で光る。つい先ほどまで、その一枚には透の姿が映っていた。

 階段へ行くな。

 死んだ透の唇は、確かにそう動いていた。

「行かない」

 澪が言った。

 自分でも驚くほど強い声だった。

 悠斗が東棟へ続く扉を見た。

「でも、今の音を確認しないと――」

「透が行くなって言った」

「鏡に映ったものを信用するのか?」

「今は、何も確認できてないまま近づく方が危ない」

 美月も澪の隣へ立った。

「賛成。さっきのは人が階段から落ちた音にも聞こえた。でも、本当に人なら声くらい出てもおかしくない。先にここで分かることを調べる」

 奈々香は返事もしなかった。左耳に当てたガーゼを押さえ、割れた鏡を見ないよう俯いている。

 朔だけは非常ベルの周期を数えていた。

 やがて胸元へ固定した小型カメラを外す。

「舞踊室の映像を見る」

 悠斗が苛立ったように振り返った。

「今?」

「今だからだ。俺たちが見たものと、記録されたものが一致してるか確認する」

 その言葉に、澪の胸元で手帳が重くなった。

 中には、澄花の字で書かれた楽譜が挟まれている。

 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。

 その一文を、澪はまだ誰にも見せていない。

 朔は床へ膝をつき、カメラの液晶を開いた。

 五人が横一列に並ぶところから映像を戻す。

 一往復目。

 五人。

 二往復目。

 五人。

 澪たちの記憶では、鏡の中の悠斗だけが半歩遅れた。

 だが保存映像では、悠斗もほかの四人と同じ速さで動いている。

「違う」

 澪が画面へ顔を近づけた。

「ここ。悠斗が遅れたはず」

「遅れてないな」

 美月も確認する。

 三往復目。

 現実では、鏡の中の奈々香が一人だけ立ち止まった。

 映像の中では、五人全員が同じ歩調で端まで進んでいる。

「私、止まってたよね」

 奈々香が掠れた声を出した。

「鏡の中の私だけ。みんな見たよね」

「見た」

 澪が答える。

 美月も頷いた。

 四往復目。

 澪の呼吸が浅くなる。

 このとき、鏡の中には六人いた。

 五人の後ろを、制服姿の少女が歩いていた。

 右手首には赤い組紐。

 けれど、小型カメラの映像には五人しかいない。

 鏡にも、五人しか映っていなかった。

 少女の姿どころか、影もない。

 朔は再生を止めた。

「カメラには入ってない」

「またそれ?」

 奈々香の声が尖った。

「教室でもそうだった。肉眼で見えたのに映らなかったり、映像にだけいたり。何が本当なの」

 誰も答えられない。

 澪は自分の胸元へ手を当てた。

 楽譜の紙が、服越しに硬く触れる。

 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。

 澄花は八年前から知っていたのだろうか。

 カメラが真実を残さないことを。

 それとも、朔のカメラだけが何かを隠していたのか。

「待って」

 奈々香が急にスマートフォンを見た。

「何かある」

 割れた画面を指で操作する。

「私、配信切ったよね」

「音楽室へ入る前には切れてた」

 美月が答える。

「通信自体もほとんど死んでる」

「なのに動画が一個増えてる」

 奈々香の顔から血の気が引いた。

「撮った覚えない」

 朔が立ち上がる。

「見せろ」

 奈々香は一瞬ためらい、端末を渡した。

 保存された動画は一本。

 作成時刻は数分前。

 撮影者情報には奈々香の端末名が残っている。

 映像は、舞踊室の入口から始まった。

 カメラの高さは奈々香がスマートフォンを胸元で構えたときとほぼ同じだった。

 五人が室内へ入っていく。

 先頭に朔。

 澪。

 美月。

 悠斗。

 最後に奈々香。

「おかしい」

 奈々香が画面を指した。

「私も映ってる」

 撮影している端末は奈々香のもの。

 なのに映像には、奈々香自身が五人目として歩いている。

 誰がそのスマートフォンを持って撮影していたのか。

 朔は黙ったまま再生を続ける。

 五人の後ろに、少女がいた。

 澪の喉が詰まる。

 今度は、顔が見えた。

 八年前のままの椎名澄花だった。

 濡れた髪を肩へ貼りつけ、制服姿で歩いている。

 右手首には赤い組紐。

 顔色は白い。

 けれど、目も鼻も口もある。

 澪が知っている澄花の顔だった。

 六人は鏡の前へ横一列に並ぶ。

 現実には五人だったはずの列に、映像の中では澄花が加わっている。

 彼女は澪のすぐ後ろ。

 肩一つ分だけ距離を空けて立っていた。

 澪は無意識に自分の背後を見た。

 当然、誰もいない。

「止めないで」

 美月が言った。

 画面の中で、六人が歩き始める。

 朔が先頭。

 全員が鏡の右端へ目を向ける瞬間が来る。

 現実では、朔が何かに気づき、五人がほぼ同時に右を見た。

 映像でも同じ動きが起こる。

 ただ一人を除いて。

 澄花だけが、一秒早く右を向いた。

 五人がまだ正面を向いているあいだに、彼女は先に顔を動かしていた。

 何かが起こる位置を、あらかじめ知っていたように。

 そのあとで五人が右を向く。

 澄花はもう、こちらを見ていた。

 撮影しているはずのスマートフォンを。

「こっち見てる」

 奈々香が両腕を抱いた。

 画面の澄花は、まっすぐレンズを見つめる。

 唇が動いた。

 音声はない。

 何度再生しても、動画には足音と衣擦れしか入っていない。澄花の口だけが、短い一語を作る。

「何て言ってるの」

 奈々香が呟く。

「透なら分かったかもしれない」

 その名を口にした瞬間、五人の間へ重い沈黙が落ちた。

 透は音だけでなく、人の口元の動きから言葉を拾うこともあった。撮影中、遠くの会話が録れていないとき、映像を止めては何を言っているか推測していた。

 もう、その声を訊くことはできない。

 美月が端末を受け取った。

「もう一回」

 映像を拡大する。

 澄花の口元だけを見る。

 一度。

 二度。

 三度。

 美月の眉が寄った。

「『下』じゃない?」

「下?」

「口の開き方。短い一音なら、そう見える」

 朔が映像を一コマずつ進めた。

 澄花は確かに、唇を一度閉じ、そのあと舌を下げるように口を開いている。

 した。

 そう言っているように見えた。

 澪は床へ目を落とした。

 鏡の破片。

 椅子の脚。

 朽ちた木板。

「下を探せってこと?」

「それが俺たちへの言葉ならな」

 悠斗は壁際の鏡を見た。

「また従うのか」

「階段へ行くよりはいい」

 美月が返す。

 五人は裏部屋へ戻った。

 割れた鏡の向こうにある細長い空間。

 プロジェクターやカメラが並び、最近飲まれたペットボトルと電池が残されている。

 朔は床へ懐中電灯を当てながら進む。

 新しい男物の足跡。

 悠斗の靴底によく似た跡。

 それらは奥の壁際で途切れていた。

 澪は割れた鏡の下へしゃがんだ。

 破片を直接触らないよう、手袋をつける。

 光を動かすと、床板の一部だけ反射が違った。

「ここ」

 朔が隣へ膝をつく。

 埃を払うと、木目の間に細い四角形の境目が現れた。

 金属板だった。

 縦二十センチ、横三十センチほど。

 床と同じ色へ塗られ、上から埃を被せられている。

 角には、最近工具を差し込んだような傷があった。

 悠斗がドライバーを出す。

「開けるぞ」

 美月が奈々香を後ろへ下げる。

 四隅の螺子を外す。

 悠斗と朔が板を持ち上げた。

 下に暗い穴はなかった。

 薄い空間に、丸めた紙が一本収められている。

 朔が手袋越しに取り出し、ゆっくり広げた。

 古い図面だった。

 紙は茶色く変色し、端の一部が水を吸って崩れている。

 上部に、七刻女学校設備管理通路図と印刷されていた。

「こんなの……」

 悠斗の声が止まる。

 通常の校内図とは違う。

 教室や廊下の輪郭の内側に、細い二重線が何本も走っている。

 壁の中。

 天井裏。

 床下。

 建物の設備を点検するために設けられた細い通路だった。

 音楽室。

 舞踊室。

 放送室。

 理科準備室。

 四つの場所が、一本の経路でつながっている。

 澪は指を震わせながら線を追った。

「放送室にも行ける」

 美月が言った。

「壁の穴」

 全員が彼女を見る。

「透を殺した装置の透明な糸。壁の小さな穴から配線用の空洞へ続いてた。これがその先なら……」

「犯人は放送室に入る必要がなかった」

 朔が続ける。

「透が内側から鍵を掛けたあとでも、壁内から糸を操作できる。モーターを遠隔で動かして、テープを引くこともできる」

 奈々香が口元を押さえた。

「じゃあ、本当に誰かが殺したんだ」

「可能性は高くなった」

 朔は図面を見つめる。

「少なくとも密室は崩れる」

「でも入口は?」

 澪が訊く。

 図面には細い通路がある。

 ところが、どこから入るのかを示す扉や点検口の記号がない。

 四つの部屋へ枝分かれする線だけがあり、始点も終点も途中で切れている。

「これだけじゃ入れない」

 美月が言う。

「どこかに入口があるはず」

「管理会社の図面には載ってなかった」

 悠斗が呟いた。

 空気が止まった。

 澪が顔を上げる。

「管理会社?」

 悠斗の顎が強張る。

 奈々香が一歩退いた。

「知ってたの?」

「違う。通路そのものがある可能性は知ってた」

「さっき初めて見たみたいな顔してたじゃん」

「正式な図面には『設備空間あり』としか書いてなかったんだ」

 悠斗は苛立ったように髪を掻いた。

「この学校の管理をうちが引き継いだとき、古い資料を見た。壁の厚さが不自然な場所があるから、設備用の空洞だろうとは思ってた。でも、人が通れる通路だなんて記録はなかった」

「どうして黙ってたの」

 美月の声が冷える。

「関係ないと思ったからだ」

「透が密室で死んだあとも?」

 悠斗は答えに詰まった。

「放送室の壁に空洞があるって分かった時点で言えたでしょう」

「人が入れるとは思ってなかった!」

 声が裏部屋へ響いた。

「古い建物なら配管スペースくらいある。全部いちいち話してたら切りがない」

 澪は図面を見ながら尋ねた。

「八年前は?」

 悠斗がこちらを見る。

「何が」

「この通路のこと、知ってた?」

 非常ベルの赤い光が、割れた鏡越しに悠斗の顔へ差す。

「知らなかった」

 短い返事。

 迷いはなかった。

 だからこそ、澪には本当かどうか分からなかった。

 八年前の鏡の噂について、悠斗は「澄花がふざけて隠れた」と言った。

 澪にはそんな記憶がない。

 もし澄花が本当に一時姿を消したのなら、壁内通路へ入った可能性もある。

 あるいは。

 誰かが、そう見せた。

 澪は胸元の手帳へ触れた。

 澄花の一文は、まだ隠したまま。

 朔は図面をカメラで撮影し、一度だけ澪へ視線を向けた。

 目が合う。

「どうした」

「何でもない」

 今度も嘘をついた。

 罪悪感より先に、胸の奥で小さな警戒が動いた。

 朔が撮っているもの。

 自分たちが見ているもの。

 そして今、奈々香の端末にだけ残された、朔の映像には存在しない澄花。

 何が同じで、何が違うのか。

 それを確かめるまでは、楽譜を見せてはいけない。

 澪はそう思った。

 図面を畳み、五人は舞踊室を出た。

 東棟の階段には近づかない。

 朔が先頭で西棟の廊下を選ぶ。

 非常ベルはいつの間にか止まっていた。

 静かになった校舎では、雨水が軒から落ちる音まで聞こえる。

 階段の踊り場が見える少し手前で、朔が足を止めた。

「聞こえる」

 澪も耳を澄ませる。

 少女の声だった。

 遠くない。

 階段の踊り場。

「一、二、三、四……」

 幼い声が、一段ずつ数えている。

 五人は動かなかった。

「五、六、七……」

 奈々香が美月の袖を掴む。

「八、九、十……」

 悠斗が懐中電灯を階段へ向けた。

 白い光の中には誰もいない。

 七刻女学校の東階段。

 澪は八年前にも何度も上り下りした。

 一階と二階の間は十二段。

 それは覚えている。

「十一」

 少女の声が一段上がる。

「十二」

 そこで終わるはずだった。

 静寂が一拍置かれる。

 誰も息をしない。

 暗い踊り場の上から、濡れた上履きが床を踏む音がした。

 ぺたり。

 少女が、嬉しそうに最後の数を口にした。

「十三」

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